スケルトン・エピ

letsspeakのブログです。

イデアについて

酔っぱらいながら書いているという言い訳をしつつ。

 

イデアという概念と出会ったのは高校の世界史だったのだけれども、僕の中の解釈としては、イデアは「想像における者の概念」という風に理解して、わりとすんなり受け入れることができました。

 

たとえば、バナナが現実にあったとして、バナナを見ずに(あるいは見ていてもいいのだけれども)頭の中に想像されるバナナと、現実のバナナとは違うわけです。頭のなかで自分の想像として現れる概念としての「バナナ」がイデアなのかなーという風に解釈しました。

 

時は流れ、今は一応プログラマーとして働かせて貰っていますが、最近プログラムを書くにあたって、このイデアという概念が非常に重要なのではないかと思う事が本当に多いのです。

 

ゲーム、業務用?を問わず、プログラムを書く流れとしてまず、何を満たす為のものなのかを定義して、それから、プログラムがどういう動作ならばそれが満たされるか、そしてプログラムを実際に書いていきます。

 

このプロセスの中で、僕が一番重要だと思うのが、「プログラムがどういう動作ならばそれが満たされるのか」という点で、これはまさに頭のなかに完成系のイデアを思い浮かべるタイミングとなります。

 

このイデアさえしっかり抱けていれば、後の実際にプログラムを書くプロセスは単に作業でしかなく、経験さえあれば、解決できない壁はないレベルになってしまいます。

そうなると、プログラムを書く上で一番重要なのは、イデアをより確実に抱くことなのではないかと思っています。

 

また、逆にこのイデアが抱けない場合、とりあえずのものを書いても未完成な者ができたり、後から書き直す可能性があるなーとか思いつつ書いて、やっぱり書き直すはめになった。という事が本当に頻繁に発生します。

 

プログラムを書くにあたっていは、イデアが最も重要。

これは僕の中ではほぼ確信になりつつあります。

 

また、このことはプログラム以外でも遭難じゃないかという仮説があります。

例えば、勉強会やライブなどのイベントを立ち上げる際にも、より強固なイデアを抱けた人から順にこれらの催しを実際に行動に移す事ができたり、ものをつくるだけでなく、会社などの組織をつくるにあたっても非常に重要な役割を果たしているのではないかなーと思っていたりします。

 

さて、話をプログラムに戻します。

上記の前提を経て、これからの未来の話に移ろうと思います。

 

30年もすれば、恐らく脳みそと電子機器が接続されて、脳みそで想像したものが簡単にプログラムになって出てくる未来になるのではないかと考えています。

 

僕の好きな攻殻機動隊の世界です。

 

そうなると、本当にプログラムを書く事自体はただの「作業」でしかなく、しかもそれは、ほぼ自動化されることになるでしょう。そんな時に一番重要視されるのは、まさにここまで述べてきた「イデア」の力。これだけがプログラマーに求められるものになるのではないかと感じています。

 

さらに次の話をします。

 

イデアさえあればプログラムが書ける。そんな環境になったならば、プログラム自身が自我を持ち、ターミネーターのようなプログラムが支配する世界が訪れるのではないか、そのような疑問を抱いたことがある方は少なくないと思います。

 

僕の考えでは、それはすぐには訪れないと思っています。

 

プログラムを作成するということは、少なくとも現実世界をイデアに変換する作業が根本にあって、それをコーディングするということで、コーディングの部分は自動化することは可能だと思います。

 

しかしながら、プログラム自身はイデア世界出身の存在なので、現実世界については一切知らないのです。

 

現実世界を知るためには、人間が普段感じている五感を満たしながら、同時に自身を成長させて、変化させていくことが必要になります。これは少なくとも脳みそが電子ネットワークと接続された瞬間では難しいのではないかと思います。

 

人間はイデアに指示されながら、現実世界の情報について補完する役割を果たす時期というのが少しの間続句事になるかと思います。それは、実際に機械が進化して、人間の五感の役割を果たすよりもずっと効率が良いのです。

 

その後、機械の進化とともに人間は淘汰されるのかも知れませんが、少なくとも僕が生きているうちは人間はまだ機械よりも優れた知覚機関となるのではないかなーと感じています。

 

酔っぱらった状態で15分くらいで書いてみた感じでは、そんな感じです。